「うーっす」
いつものようにイシカワが出勤すると、何だか共有室が騒がしい。
「…何の騒ぎだ?」
「あ、イシカワ」
入口近くに居たトグサを捕まえると、トグサは人の輪の中心を指差した。
「俺らは前に見てたから驚かないけどさ、若い連中には新鮮らしいぜ?」
「なるほど」
若手連中に囲まれて憮然とした顔で座っているのは、トレードマークになっていた長い髪をばっさり切ったバトーだった。
「どういう風の吹き回しやら」
ぼそりとイシカワは呟いた。
こういう商売で髪を伸ばすのは百害あって一利もない。それを誰に何を言われても絶対にやめなかったバトーが何故…と考え込んだイシカワを見やって、トグサがひっそりと微笑んだ。
「…もう、伸ばす理由がなくなったらしいぜ?」
「会えたのか、少佐に」
三年前突如失踪した草薙は、イシカワはじめ9課のメンバーがどれだけ探してもその足跡すら見つけることはできなかった。
最も傍に居たはずのバトーがその行方に興味を見せなかったところから、イシカワは草薙が自分たちの手の届かないところに行ったのではないかと推測した。
バトーが髪を伸ばし始めたのは、少佐が居なくなった直後からだった。
おそらく消えた女に一目遭えるまで、と願を掛けて髪を伸ばしたのだろうバトーを冗談めかしてからかうことはあっても、馬鹿にすることは出来なかった。
電脳戦のスペシャリスト、世界有数の義体使いと彼女を表す言葉はいくつもあるが、百戦錬磨のプロ揃いの公安9課を束ねる唯一無二の存在で、そしてただ一人バトーがその背中を預けることを許した相手だったのだから。
「俺は会えなかったけど、バトーは会えたらしい。あいつ、何も言わないけど…イシカワにもわかるだろ?」
「ああ」
択捉に行くまで、いつもバトーを取り巻いていた剣呑な空気が見事に消えていた。常に沈鬱な雰囲気を漂わせていた顔付きも、どこか柔らかいものとなっている。
トグサに言われるまでもなく、それはイシカワにもすぐに分かった。
「…結局俺たちがどれだけ心配したって、少佐には敵わないんだな」
「お前は良くやったよ」
少佐失踪以来暴走してばかりのバトーのパートナーとして、トグサは随分頑張ったとイシカワは思う。択捉でも生身のくせにかなりの無茶をしたと聞いた。それも全てはバトーを気遣ってのことだろう。
ぼそりと口惜しそうに呟いて俯いたトグサの肩を軽く叩いてなだめると、イシカワは共有室に踏み込んだ。
「おい、お前らいつまで油売ってやがる! 仕事しろ!」
怖いお目付け役の登場に、蜘蛛の子を散らすように若い連中が出て行く中悠然とソファに座ったままのバトーをイシカワは見下ろした。
「…そっちのほうが似合うぜ?」
手を伸ばして頭を撫でてやると、嫌そうにバトーが身じろぎした。
「俺は犬じゃねえ」
「似たようなもんだろが」
短く刈り込んだ襟足から後頭部に掛けて手のひらを滑らせると、短毛種の犬を撫でているような気がして結構楽しい。
結局トグサがバトーを呼びに来るまで、イシカワは嫌がるバトーの頭を撫で回し続けた。
(…来たか)
共有室を出て、自分の城であるダイブルームで仕事に掛かるべくネットに繋がったイシカワは、正体不明のIDを持つ人間が自分にアクセスしたがっているのに気付いた。
『久しぶりね、イシカワ』
「そろそろ連絡寄越す頃だと思ったぜ」
アクセス拒否の処理をしようとしたわずかな隙を突いて一方的にイシカワの電脳に直接交信してきた相手は、今イシカワが最も連絡を取りたい相手だった。
「今までメール一本寄越さなかったお前が、今更どういう気まぐれだ?」
どこか行動のおかしいバトーを危ぶんでそれとなく監視をつけていたイシカワだったが、あの雨の夜にバトーの暴走を止められたのは正体不明の相手からの電通だった。
『バトーが危ない』
イシカワ自身が念入りに組み上げた五層の防壁を易々と突破できるほどの力を持った相手など、そうそう居るはずもない。
コンタクトしてきた相手を誰何するのはは後回しにして、イシカワは送られてきた座標に向かって走った。おかげでバトーが暴走サイボーグとして処理される前に回収できたのである。
『…その必要がなかっただけよ』
ノイズ交じりの声がそっけなく告げた。
「択捉で、バトーに会ったんだってな。あいつに何を言ったんだ?」
帰らない草薙を待ち続けて生きる屍のようだったバトーが、息を吹き返したのは草薙が直接何かを言ったからなのだろうとイシカワは察していた。
イシカワから見れば草薙に一方的に捨てられたように見えるのだが、バトーは今でも待ち続けている。まるで帰らぬ主人を待つ犬のように。
『別に大した事じゃないわ。バトーがネットにアクセスする時、私が必ず傍に居ると言っただけ』
「『影見えぬ君は雨夜の月なれや』…てところか。すげえ殺し文句だ」
古い文学の一節をネットで拾って呟くと、遠い彼方で小さく笑う気配がした。
「飽きた玩具でも、他の人間に壊されるのは我慢ならないか? ・・・相変わらずだな、お前」
バトーと草薙の関係は、世間一般の男女の仲とはかなり違う。間違いなく惚れ込んでいるのはバトーの方で、草薙はそうでもない。だが、草薙がバトーのことを何とも思っていないかと言えばそれも微妙に違う。
残酷で強欲な女神は、哀れで健気な犬を深く心に掛けてくれているらしい。それがバトーにとって幸せなことかは本人にしかわからないことだろうが。
『あれは私のよ。余計なことしないで』
さらりと放たれた警告に込められたものに気付かないほど、イシカワは鈍くない。
あの雨の夜、取り乱したバトーを落ち着かせるためにイシカワが何をしたのかを草薙は知っているらしい。
あくまで草薙の言葉は柔らかかったが、『次はないぞ』という恫喝を含んでいるように思えてぞっとした。
「…そんなに大事なら、一緒に連れて行けば良かったんじゃねえのか?」
『バトーはそれを望まなかったわ。だから私も連れて行かなかった』
割れ鍋に綴じ蓋…という古い格言が脳裏をよぎったが、それを口に出すほどイシカワは命知らずではない。
「…わかった、あいつにちょっかいは出さない。それでいいか?」
『いいわ、それで』
イシカワの返答に満足したのか、小さく笑う気配がした。
『じゃあ、そろそろ行くわ。あとは宜しくね』
「わかったよ」
繋がった時と同様に、ログアウトも唐突だった。
交信が終わったことを慎重に確認してから、イシカワは深くシートにもたれて大きく息をついた。
「…厄介なもん、押し付けて行きやがって」
(面倒見るの、嫌いじゃないでしょ?)
思わず毒づくと、遠いどこかで女が笑った気がした。
女神に振り回されているのは、バトーだけではないのかもしれない。そう思いながら、イシカワは作業に取り掛かった。
「映画版」「バトーと誰か」「雨」がお題の企画だったのですが、
少佐を出しちゃったので、いささか反則気味になったかも(汗)
イシカワさんのお見通しっぷりが、何となく少佐と繋がってるように思えたところからの連想です。
文中引用した句は、
「影見えぬ君は雨夜の月なれや出でゝも人に知られざりけり」
(「詞花和歌集」巻第七 恋上207 僧都覚雅)
というもので、添え書きに
『三井寺に侍ける童を、京にいでばかならずつげよと契りて侍けるを、京へいでたりとは聞きけれども、おとづれ侍らざりければ、いひつかはしける』
とあるので、状況はちょっと逆かもですが。
あの『いつでも傍に居る』ってのは、愛の告白というよりも一生外れない首輪を付けたっぽい気がします。
それで喜んじゃうバトさんもバトさんだな〜と思ってみたり。