いつものように、家に帰ろうとしたマルコは、見慣れないものを見つけて足を止めた。
路地裏のゴミ捨て場に埋もれるように、何か大きなものがうずくまっていた。
何となく気になって近づいてみると、それはほぼ裸の大柄な男性形の人形だった。
(ひでぇ事する)
首に年季の入った黒い首輪がはまっている所をみると、どこかで犬として飼われていたようだったが、申し訳程度に身体を覆った布の下から見える肌は薄暗い中で見てもわかるほど、酷い状態で。
マルコが近づくと、うつむいていた男が顔を上げた。壊れているとばかり思っていた人形はまだ機能するらしい。男はマルコを見上げて何事か呟くとまたうつむいた。
「ご主人様でなくて、悪かったな」
『ちがう』と薄い唇が言葉を紡いだのを、マルコは見逃さなかった。その反応からすると、男は飼い主に捨てられたが、それでも忘れられないらしい。
「まだ待つつもりか?」
かがみ込んで尋ねて見ても、答えは帰ってこない。マルコの存在を無視する男の様子に小さくため息をつくと、マルコは少し思案した。
やわな愛玩犬ではなく、ちょっとやそっとでは壊れない頑丈な犬が欲しい。そう思っていたマルコにとって、目の前の男は非常に魅力的だった。
このまま男をここに置いておいたら、数時間後には回収されてしまうだろう。もう迷う時間はなかった。
(しょうがねえな)
小さく笑うと、マルコは上着のポケットからある物を取り出した。
「ちょっとごめんな」
男の頭に手を掛けると、男が暴れだす前に首のインターフェースにそれを押し付けた。職業柄いつも持っているゴースト鍵である。電脳化している相手ならまずその効き目からは逃れることは出来ないはずだった。
(よし)
男の身体がくたりと弛緩したことを確認すると、マルコはその大きな身体を楽々と担ぎ上げて帰路についた。
家に帰ったマルコが最初にしたことは、男の掃除だった。リビングのソファに男を寝かせると、濡らして絞ったタオルで全身を良く拭いた。
本当は風呂に入れて丸ごと良く洗ってやりたいところだったが、皮膚のあちこちが破れている状態では危険だと思ったために今日のところは拭き掃除で我慢した。
(どんな奴に飼われてたんだ…)
明るい所で改めて見た男の肌には、皮膚の破れ以外にも大小さまざまの痣や打ち身、切り傷だけでなく、鞭や縄の跡までが所狭しと残っていた。よっぽど嗜虐癖の強い人間に飼われていたのか、それともこの男自身の性癖か。
どっちにしても、それでもこの男は飼い主に懐いていて飼い主以外を主と認めないかもしれない。
(そそるねえ)
ガードの堅い相手を落とすのは楽しい。そういう意味ではマルコもまた男の飼い主と同じ種類の人間なのかもしれないが。
(B・a・t・e・a・u…“バトー”か)
首輪に付いた小さなプレートに綴られた文字をマルコは読み取った。おそらくそれが男の名前だろう。
「起きろ、バトー」
皮膚の破れに応急処置を済ませてから鍵を外して呼びかけると、男が小さく身じろぎした。目蓋のない義眼の男だったが、その反応で意識が戻ったとマルコにはわかった。
「お前をゴミに出すのは忍びなくて、拾ってきた」
マルコの声に、男は何の反応も示さない。
「俺はマルコ・アモレッティ。お前の新しい主人だ」
マルコの宣言に、男はぷいと横を向いた。想像通りとは言え、こう無視されると面白くない。
「お前の脳みそ、覗かせてもらうぞ」
抵抗する間も与えずに、自分のインターフェースからコードを伸ばして防壁越しに繋がったマルコは、バトーの電脳を覗いて驚いた。
てっきり機械だと思っていたこの犬は、ちゃんとゴーストが存在する人間で。ごつい身体つきなのは、軍御用達メーカー謹製の戦闘用義体だかららしい。
(軍用犬ってことか?)
ネットで脱走者のリストを洗ってバトーの義体のシリアルがなかったことに安心しながらも、ますます謎は深まるばかりだった。
こんなごつい奴をどこの物好きが手元に置いていたのか。バトーの電脳を探ってみても、肝心のデータは見つからなかった。いくつか怪しいデータはあったもののそのどれもがブラックボックス化されており、電脳戦に強いマルコでも近寄りたくないような防壁で覆われていた。
(やりたくないんだなあ)
小さくため息をつくと、マルコは別ルートからとあるネットに侵入した。幾重にも張り巡らされた防壁を潜り抜け、バトーの名前と義体のシリアルをそこのデータベースで検索すると、あるデータが反応する。
足が付かないように注意してログアウトすると、マルコはお互いのインターフェースからコードを外した。
「お前、あの草薙少佐の犬だったのか」
その名を出した途端、バトーの様子が変わった。歯を剥いて飛び掛ろうとするのを押さえつけて封じ込める。
「力比べなら、負けねえよ」
並の人間なら跳ね飛ばされそうな力でもがき暴れるバトーを易々と押さえ込んで、マルコはにやりと笑った。
見た目はバトーよりも普通の人間に近いが、マルコもまた戦闘用に特化した義体の持ち主だった。マルコのほうがバトーよりもやや体格が良い分、力の差はおのずと知れるというものである。
「うっ…くっ……」
力で勝てない悔しさに歯軋りするバトーが、初めて声を出したことに頬が緩みそうになるのを抑えながら、マルコは次の手を打つ。
「俺なら、お前を捨てたりしないぞ?」
バトーの主人だった草薙少佐のことは、ネットに記録が残っていた。才色兼備の有能な軍人にして無類の愛犬家だったというその人は、ごく最近謎の失踪を遂げていた。
彼女が何処へ消えたとしても、バトーがここにいると言う事は彼女に連れて行ってもらえなかったということで。
飼い主に捨てられるということは、犬にとって最大の屈辱に他ならない。犬が飼い主を慕っていればなおのことだろう。
「お前が好きなだけ、遊んでやるよ。玩具でも、生でもいい。痛いのが良ければ、いくらでも苛めてやる。…なあ、どうだ?」
耳元で囁いてやると、だんだん抵抗が弱くなった。もう一押しで、バトーは落ちる。舌なめずりしそうになるのを堪えて、マルコはさらに囁いた。
「俺の犬になれよ、バトー」
右手でバトーの抵抗を封じ込め、左手でもがく身体を撫でてやる。意外と感じやすいのか、マルコの手に反応して身体が揺れ始める。
「返事は?」
駄目押しとばかりに尋ねれば、バトーの動きが止まった。音がしそうな勢いで首を横に振る様子を見て、マルコはいささか急ぎすぎたことを知った。
「…いいさ、ゆっくり考えてくれ」
短く刈り込まれたアッシュブロンドの髪を撫でてやりながら、マルコは笑って見せた。
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